ドイツ写真の現在

文化の日に行きたいと思っていた東京国立近代美術館の展示、バンコクから帰ってから…と思っていたけど、TBをつけてくれた方のレポートを読んでいたら帰国まで待ちきれなくなり、フライト当日の昼、旅行カバンを持ったままふらっと観に行ってしまった。ぼくの最近の関心ともリンクする、とても興味深い展示だった。特に印象に残った作家や作品を挙げていくと……
(※作品は上のリンク先を参照)、

アンドレアス・グルスキー…かねてから噂に聞いていた「大阪」(=茨木市のゴルフ練習場の風景)が生で見られてうれしかった。グルスキーの写真を見ているといつも、神さまの視点でミニチュア模型みたいな人間や動物の小さな小さな営みをはるか上空からのぞき込んでいるような、すがすがしい気持ちになれる。全長2mもある作品の一枚一枚を隅々まで見ているだけで、何分も時間が過ぎてしまう。いつか単独の展覧会を日本でやってほしい。

トーマス・デマンド…一瞬CGと見まがうほどのスーパークリアな室内写真は、写真家本人が紙で作った原寸大の模型を撮影するという手法によって制作されている。この迂遠なプロセスによって作品に内在される狂気。

ハリス=クリスティアン・シンク…モチーフになっているのは、統一ドイツの交通網計画によって旧東ドイツに生まれた道路や橋などの新しい交通設備。美しく撮れば撮るほど、その空虚さが浮き彫りになる。まさに、かわりゆく「現在」の記録。

ヴォルフガング・ティルマンス…ドイツで写真を学び、いまはロンドンで活躍するティルマンスのリラックスした作品の数々。ロンドンでもパリでも東京でも成立するような、コスモポリタン的で“自由”な空気がこの美術館の中では新鮮だった。

最後に、ベルント&ヒラ・ベッヒャーについて。同じアングル・同じ天候条件のもとで淡々と写しとられていく、砂利工場や鉱山、給水塔などの建築物。人間の主観や歴史性を冷徹に排除し、構造や機能により「類型学」的アプローチでソートされたこれらの写真を見ているうち、その冷徹さとは対極のセンチメンタルな感情で胸が満たされてくるのはどうしてだろう。写真とは記録=記憶である、という当たり前の事実にいまさらながら気付かされる。たまたま最近読んでいた赤瀬川原平の「超芸術トマソン」「路上観察学」にも似た匂いを感じた。一見ユーモラスにみえる路上観察学会の活動(トマソンも一種の「類型学」)が、結果として、失われてゆく戦後の貴重な記録=記憶となっていたように、ベッヒャー夫妻がえんえんと試みる“記録”もまた、ナチスドイツ→戦後・冷戦時代→ベルリンの壁崩壊・東西ドイツ統一、というドイツの激変し続けてきた“かわりゆく「現在」”を、忘れずに銘記することのアナロジーにみえてならないのだ。ふー。

服部一成さんがデザインしたパンフレットは、主要な展示作品がほとんど収録されていてとってもおトク。ブルーナ・カフェは時間の都合でどうしても行けず、入口で断念。初めて行ったけど、とっても素敵な美術館。また行きたい。

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