永江朗『平らな時代』と“主体性”について

人からずっと借りっぱなしになっていた永江朗のインタビュー集『平らな時代―おたくな日本のスーパーフラット』を再読。あらゆるものが等価とみなされるようになったおたく世代以降の日本文化を、さまざまな分野の表現者へのインタビューをもとに読み解く本である。

「まえがき」に東浩紀『動物化するポストモダン』についての記述が出てくる。本書のテーマである「すべては等価である」という認識の直接的なヒントになったのが『動物化するポストモダン』だったそうだ。『動物化〜』が世に出たのが9.11以前の2001年。この本は2003年発行。ぼくは何も知らなかった。

『〈ことば〉の仕事』の仲俣氏と同様に、永江氏も雑誌「本とコンピュータ」に一時期かかわっていたという。そのせいか、『〈ことば〉の仕事』とこの本にはどこか共通する匂いが感じられる。「おたく世代以降…」とうたわれているが、本書に登場する様々なジャンルの表現者たちは、おたくでもなければ新人類でもない。80年代以降の世界を浮かれもせず舞い上がりもせず、欲望を表立って前に出すこともなく(隠そうとして逆に露わにしてしまうこともなく)、淡々と過ごしてきた人たちばかり。そこがいいと思う。
 

建築ユニット「アトリエ・ワン」のインタビューの、建築が絵画等の表現と異なるのは「施主」という存在があること、という話題についての発言より。

塚本 (略)「オレ、オレ」「私、私」というふうに押し切るやりかたがあまり好きじゃないのは、「オレ、オレ」というのはまさに主体性の確保で頭がいっぱいになっていて、他者の扱いかたに映し出される主体のありかたがあるということに無自覚だと思えるからです。
——そこで世間一般にとってアトリエ派がわかりやすいのは、スタイルの確立があるからでしょう。安藤ふうというと、施主は「コンクリート打ち放しにしてくれませんか」となる。谷口親子だったら和風だったり。フランク・ゲーリーは同じようなことを反復している。ところがアトリエ・ワンはそういうスタイルには背を向けている。飯島洋一が反発するのもそういうところでしょう。スタイルを確立しない、だから無名性、匿名性である、と。
塚本 モノローグはいやなんです。ダイアローグ、コミュニケーション、インタラクションに向かいたい。できるだけ世界との接触を増やしたいし、発見的でありたいから。

施主をクライアントに置き換えれば、デザインの話としてそのまま成り立つだろう。
 

つい最近も実感していることだが、自分の仕事において、自分自身の“主体性”というものが限りなく薄くなっているように感じる。担当した仕事を「ぼくが/わたしがデザインした」とは100%言い切れない感覚がいつもある。デザインにおけるクライアントやその他の人々とのやりとりの中で、いわゆる純粋な意味での“主体性”はつねに危機(=外部)にさらされている。主体はデザインする“私”の中になく、プロダクト/プロジェクトをとりまく場=全体の中にオーラのように存在している。

より現実的な言いかたをすれば、ある仕事ではプロデューサーの誰々さんの意見をそのまま形にすることもあるし、別の仕事ではイラストレーターやミュージシャンの誰々のアイデアを活かす最善の方法を考えるというアプローチもある。

固有のスタイルは持たない。だからといって他人の意見に「流される」のではなく、編集者のように全体を見ながらヴィジュアルの流れを望ましい方向にコントロールしていく。そこは自分できちんと責任を持つ。関わったスタッフそれぞれが「これは自分の仕事(デザイン)なんだよ」と胸を張って人に言えるようなプロダクトが作れればいいと思う。強いていえば、そういう仕事の積み重ねの中にぼくという主体の固有性がうっすらと浮かび上がるような感じ。

ぼくが「デザイン=(イコール)器」ということばで表現したかったのは、まさにそのような「他者の扱いかたに映し出される主体のありかた」のことだった。

 
写真=平らな時代―おたくな日本のスーパーフラット

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