RETURN OF THE DREAD BEAT〜MUTE BEAT復活

RETURN OF THE DREAD BEAT〜MUTE BEAT復活

ミュート・ビートが一夜限りの復活ライブ、とのニュースを聞いて驚いた。

ぼくが熱心なミュート・ビートのファンだったのは静岡在住の頃だったから、もうあれから約20年も経つわけだ。実はデザイナーになる直前のライター時代に、いまはなきレゲエマガジン(RM)にミュート・ビートについての長い文章を執筆したことがある。ほかにも『集団左遷〜小玉和文の映画音楽〜』についてのレビューや、DJ FORCE(ドラムンベース/ハードコアのDJ)のインタビューも出ているはずなので、気になる方はバックナンバーを探してみていただきたい。

ミュート・ビートの活動期のLIVEを一度だけ地元で観たことがある。当時は東京にライブを観に行く金もなく、『宝島』に度々載る「東京ソイソース」のルポを指をくわえて眺めつつ、地元でも手に入るCDを聴くしか彼らの音に触れる術がなかった(カセットマガジンの『TRA』も買っていた)。そんな折に飛び込んできた来静の知らせに、思わず大喜びしたものだった。会場は、静岡駅南口の通りを歩いてすぐの場所(現在の静岡市葵区南町)にあった、モッキンバードというライブハウスだった。当時のマンスリースケジュールをネットで発見したので貼っておく(元のページは消滅)。これによると、ライブが行われたのは1987年8月12日(水)、ということになる。過去にはヒカシューやルースターズも来たことがあるらしい。


 

メンバーは今回の復活ライブとも重なる、こだま和文(Trumpet)、増井朗人(Trombone)、松永孝義(Bass)、朝本浩文(Keyboards)、宮崎“DUB MASTER X”泉(DUB Mix)に、ドラム今井秀行という、『FLOWER』〜『LOVER’S ROCK』時の最強の布陣(GOTAさんは既にロンドンに旅立っていて不在だった)。
 

その日は確か『FLOWER』発表直後のツアーで、アルバムからの曲を中心に『STILL ECHO』や、のちに『LOVER’S ROCK』としてリリースされるいくつかの新曲を並べた構成だった。『LOVER’S ROCK』のジャケットに象徴されるように、前年(1986年)に起こったチェルノブイリ原発事故の余波で世の中がピリピリしていた。こだまさんのMCにもその影響が色濃く出ていたように思う。

記憶が定かでないが、『LOVER’S ROCK』収録曲の「DUB IN THE FOG」にちなみ、“セシウム・イン・マイ・ポケット”のエピソードを紹介していた。曰く、原子力発電所のあるヨーロッパのどこかの町で、ある男の子が小さな光る石が地面に落ちているのを見つけた。男の子はそれを拾って宝物のように自分のポケットにしまっておいた。しばらくしてポケットのあった男の子のおなかに焼けただれたような小さな穴が空いてしまった。それはただの石ではなく、実は放射能を含んだ核廃棄物だった……みたいな話。

決して拳を振り上げたり青筋立てて怒ったりしない、こだまさんの訥々としたしゃべりとジャケット写真と無言の音による、静かな(STILL ECHOのような)抗議がぼくは好きだったし、いまでも好きだ。
 
lovers-rock
 
面白かったのは、決して広くないライブハウスの前後で客の反応が全く違っていたことだった。前の方の客は踊り、後ろの客は腕を組んで静かに観ている。ぼくは最前列で踊る方だった。終盤になって、踊っていた誰かが後ろを振り向いて、「お前ら踊れよ!」と大声で怒鳴っていた。

熱い。なんか時代を感じさせる。当時の静岡にはレゲエで踊る風習は確実になかったし、ミュート・ビートの曲なら立って聴くのも座って聴くのも自由だろう。しかしそんな騒ぎをよそに、ステージの5人+DMXは涼しい顔で演奏を続けるのだった。不良でもなく生真面目でもない、クールとしか言いようのない彼らの姿勢/佇まいには、人生とデザインの両面でかなりの影響を受けた、と我ながら思う。

21世紀、この未来の日本に、彼らのエコーはどんなふうにこだまするのだろうか。

 
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五街道佐助(改め四代目隅田川馬石)の「淀五郎」

五街道佐助(改め四代目隅田川馬石)の「淀五郎」

寄席発祥の地と呼ばれる稲荷町・下谷神社で、五街道一門の寄席『五街道 FOREVER II 〜隅田川馬石への旅立ち〜』を落語の先輩たちに付いていって観ることができた。五街道佐助が今月、四代目隅田川馬石(すみだがわばせき)を襲名し、真打に昇進するのにともなうお祝い公演も兼ねていて、中入り後には一門による昇進挨拶も行なわれた。少し先輩の“桃ちゃん”こと桃月庵白酒が司会をつとめる学校寄席(小学校の営業でやる寄席の完全な再現)なども楽しく、小所帯ならではのアットホームな雰囲気に終始笑いが止まらなかった。

佐助のことはもちろん今回初めて知ったのだが、師匠の五街道雲助に入門したのが平成5年(1994年)だと聞いて、妙に親近感が沸いてきた。ふと振り返れば、かつて故郷の静岡から上京して前の会社にライター志望で入社したのが、ちょうど佐助が入門したのと同じ1994年だった。佐助が二つ目に昇進したのが平成8年(1997年)。これは当初目指していた編集・ライターへの道から方向転換してデザインを始めた年にあたる。それから10年後の真打昇進。デザインを始めてからもう10年になることに、このような思いがけない場で気付かされ、ちょっと吃驚した。デザイナーにも昇進制度があったら面白いのに、なんて思ったりもした。落語家の昇進制度は、若さ、師匠からの心技の継承、昇進後の円熟など、落語家の多くが備える独特の佇まいや気品の形成に寄与しているように思える。

昇進挨拶で佐助は、師匠の雲助に弟子入りしたばかりの頃に師匠の「淀五郎」を聞き、いつか自分もその噺をやってみたいと思っていた、と語った。その「淀五郎」を佐助はこの日の演目に自ら選んだ。初めて聞く「淀五郎」(←サイト「落語の舞台を歩く」より)は、芸事の精進をテーマとした、佐助の13年の道筋にも重なる噺で、その迫真の語り/演技とも相まって深く心にしみるものがあった。

「淀五郎」は、「忠臣蔵」の大役にいきなり大抜擢された新人役者の淀五郎が、自分を推してくれた先輩役者から、舞台上での“ダメ出し”と辛辣な言葉を食らって悩む、という噺。先輩役者を斬って、役柄よろしく自らも腹を切って死のうと覚悟を決めた上で訪ねた、古くから世話になるベテラン役者に淀五郎はこんな意味のことを言われる。「お客にいいところを見せようという気持ちがあるから、演技が大袈裟になる。本当にその役になりきって腹を切るのと、お客にほめられたいと思って切るのでは大違いだ」……ここを聞いて背筋がヒヤッとした。芸の探求ということに関しては、落語家もデザイナーも(たぶん他の仕事も)同じようなところがあるのかもしれない。先日、長年お世話になっているクライアントから「仕事は自己表現の場ではない」と非常に奥深いことを言われ、うーむと納得したときのことも頭をよぎった。

仕事が思うようにいかないとき、自己を取りまく殻に亀裂が入り、そこから示唆に満ちた外部の声が聞こえてくることがある。そこでその声に耳を傾けるか否か、が芸の道を行く者にとっては特に重要だと思う。まだ経験が浅いうちはその声を疎ましく感じることもあるかもしれない。が、逆にそういう時期こそ、殻を壊す機会にたくさん出会えるのもまた事実なのだ。……まだ初心者の分際ではあるけれど、数少ない落語経験の中から引っかかってくるのは不思議とこんな教訓ばかり。もちろんあとの90%は笑い転げている。
 

写真=ビクター二八落語会 隅田川馬石「元犬」「崇徳院」「甲府い」