ぐるりのこと。

映画を映画館で観るのは何年ぶりだろう。「ぐるりのこと。」は、リリー・フランキーと木村多江という夫婦のキャストの妙と、主人公の法廷画家という特殊な職業が面白そうだったこと、そして、かつて『ハッシュ!』を撮った橋口亮輔監督が、うつと闘った自らの経験を作品に織り込みつつ6年ぶりに作り上げた作品だと聞いて、観てみたいとずっと思っていた。物語は、法廷作家として直面した凶悪事件の裁判の場面をアクセントにしつつ、全体として淡々と進んでいく。たっぷりの行間と余白があって、そのすきまを観る人の想像力が埋めていくタイプの作品。その余白と間(ま)の美しさは北野映画にも通じるものがあった。

わが子の早すぎる死をきっかけに自分を責め、やがて心を病んでいく木村多江演じる妻・翔子と、彼女のすべてを黙って受け止めるリリーさん演じる夫・カナオの関係が、自然で力が抜けていて好感が持てた。純粋な翔子を気遣うカナオが見せるちょっとした仕草にも、さりげない優しさが伝わってくる。去年、ストレスがきっかけで少しだけ心が躓いた日々のことを、思い出しながら観た。病めるときも、健やかなるときも、変わらず穏やかな気持ちで見守ってくれるパートナーの存在は、本当にかけがえのないものだ。

うつとかパニック障害といったある種の心の病は、植物でいえば「種子」のような状態にたとえられると思う。樹木に成った実が、他の生物に食べられ、腐って地面に落ちたりして、朽ち果ててやがて種子だけが残る。輝かしい花や実を植物のサイクルの頂点とするならば、種子の皮はあまりに固く中は暗くて、一切の終わりを想起させる。こんな状態にもし閉じこめられたら、人は溜息の一つもつきたくなるだろうし、手も足も出ず、何もしたくなくなるものだ。場合によっては「死」を考えたくなることだってあるに違いない。しかし、そこで忘れないでほしい。種子はひとつの死であると同時に、新しいサイクルの始まる場所、生の源泉だということを。やがてしかるべき時が経てば、ひと筋の新しい芽が固い殻を突き破り、天に向かってまっすぐに伸びてゆく。それが自然の摂理というものだ。……そんなことを、映画の後半を観ながらぼんやりと考えていた。