2006/08/18〜19:RISING SUN ROCK FESTIVAL 2006 in EZO

2006/08/18〜19:RISING SUN ROCK FESTIVAL 2006 in EZO

今年も行ってきました。

S=SUN STAGE E=EARTH TENT R=RED STAR FIELD M=MOON CIRCUS G=GREEN OASIS
BH=BLACK HOLE BG=BOHEMIAN GARDEN

060818fri
InK [M] →GANGA ZUMBA [G] →スカパラ [S] →ゆらゆら帝国 [E] →休→buffalo daughter [R]

060819sat
真心ブラザース [R] →ケツメイシ [S] →米米CLUB [S] →休→高橋幸宏 [M] →rei harakami feat. 矢野顕子 [M] →KODAMA & THE DUB STATION [R] →休→カクマクシャカ×DUTY FREE SHOP [BH] →Taiji All Stars(松雪泰子〜奥田民生) [BG] →終
 

▼InKはオヤジ(×2)のアシッド。過去と近未来のちょうど中間地点に位置する、ある時期の808STATEを連想させる音。宇川直宏の映像が心地良し。

▼GANGA ZUMBAを観ていたら、何故か憎悪や殺意に似た感情が腹の底から沸き上がってきた。ステージでのMIYAのパフォーマンスは(多少のポーズは含まれているにせよ)この世の闇を代表しているみたいに邪悪でひたむきで命懸けにみえた。表現というものは口先手先だけではダメで、たとえば「ちくしょー」と心の中で叫びながら命懸けでやらなくては人々はおろか自分自身にすら届かない、こともあると思う(最近の経験より)。悪事を重ね、あふれる怒りや憎しみを彫刻刀に込めて無数の邪悪な像を彫り続けた『火の鳥・鳳凰編』の主人公・我王を思い出した。厳しさという十字架を背負って表現に立ち向かう者にこそ、「楽園」の歌詞のようなやさしいコトバが手に入れられるのかもしれない。

▼ゆらゆら帝国を座って聴く。やってることはノイジーなのに音の佇まいが静謐。

▼初日の最後、もう寝るか迷ってbuffalo daughterへ。三人のドラマーが登場。ぼくは現ドラマーの音が好き。

▼初めて観るアーティストのライブに潜り込み、ファンのふりして前の方で踊る。スカパラではスカダンスを踊り、ケツメイシではタオルをぶんぶん振り回す。異常に楽しかった。熱狂の中に身を置かないとわからないことがある。熱狂の外からでないとわからないこともある。

▼高橋幸宏の音はMoon Circusの竹製ステージ(SOI MUSICの遠藤さん制作)の雰囲気にぴったり合っていた。電子音+自然音が織り成すスーパーナチュラル。

▼今年もここで観るrei harakami、そしてfeaturing アッコちゃん。矢野顕子とのこれまでのコラボレーションの集大成。矢野さんの“花火の伴奏”。音と演奏と空気と花火と……その場にあるものすべてが表現、これフェスの醍醐味。《いい人の上にも 悪い人の上にも/静かに夜は来る みんなの上に来る》(「ごはんができたよ」)

▼KODAMA AND THE DUB STATION。忘れもしない20年前、一瞬アイドルよりも好きだったミュート・ビートが地元の静岡にツアーで来ると聞いて観に行った。ちょうど『LOVER’S ROCK』のリリース直後で、「キエフの空」でのチェルノブイリや放射能汚染についてのこだまさんのMCが呪文のように強く心に残った。それから20年。「キエフの空」やミュート・ビートの数々の名曲がプレイされ、こだまさんのMCも、自分自身も、そしてこの世界の状況も、何一つ変わっていないことを肌で実感する。歴史を繰り返す愚かな人類たち(自分含む)と共にアンコールの「What a wonderful world」で踊った(今回のレパートリーの多くは、7月に出たばかりのセルフ・カバー・アルバム『more』の収録曲)。

▼No Nukes Party。マッチョなコトバ、YES/NOのどちらか一方しか見(え)ないコトバ……。直感でしかないが初めて見たDUTY FREE SHOPP×カクマクシャカ、その二人の佇まいと言葉使いに、繰り返されるコトバとコトバの平行線的世界から逃れていくような自由を感じた。基地の島・沖縄出身であることと関わりがあるのだろうか(沖縄の若者たちは「ヤンキー・ゴー・ホームと言えない」と何かの本で読んだ)。

▼まだ一度も足を運んでなかったボヘミアンで、シアターブルックの佐藤タイジによるTaiji Allstarsを。歌の異様にうまい姉ちゃんの歌声にうっとりしていたら、女優の松雪泰子だった。続いて登場した奥田民生のギターテクとMCを満喫してフェスの見納めとした。

 
北海道は今年で二回目。多忙のため一時はチケットを誰かに譲って参加をあきらめようと思ったほど。こうやってお金と時間を使って、束の間の夏のひとときを仕事を忘れて過ごせたことの喜びをいまもかみしめている。今年はついにマイテント持参。とりあえず悪条件じゃなければこいつさえあればどこでも過ごせる自信がついた。同宿のSくんありがとう。

ゲームでいえばスペシャルフラッグ・隠れキャラ的な要素が多かった去年(2005年)に比べて、今年はどちらかといえば“本格的”で、より音楽ファン向けの内容になっていたように感じた。moon circusなどのサブ級ブースは大きくなって、隠れ家的に入り浸れる雰囲気ではなくなっていたし、一人のアーティストの持ち時間が増えたことで若干各ステージのライブの本数が減り(全体の出演者数は増えている)、一人一人のライブを存分に楽しめるメリットはあったものの、去年のように未知のアーティストと出逢える機会は減った。ステージ間の距離が遠くなり、特にグリーンは本当に目的がなければ行く気になれなかった(逆のボヘミアンも然り)。

これを機にいろいろ他のフェスに参加してみるのもありかなという気持ちと、逆にもうフェスは行かなくていいかなという気持ちが半々。読書フェス、批評フェス(佐々木敦さんの「批評家トライアスロン」)、落語フェスがあったらぜひ行きたい。
 

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>>2005/08/19〜20:RISING SUN ROCK FESTIVAL 2005 in EZO

永江朗『平らな時代』と“主体性”について

永江朗『平らな時代』と“主体性”について

人からずっと借りっぱなしになっていた永江朗のインタビュー集『平らな時代―おたくな日本のスーパーフラット』を再読。あらゆるものが等価とみなされるようになったおたく世代以降の日本文化を、さまざまな分野の表現者へのインタビューをもとに読み解く本である。

「まえがき」に東浩紀『動物化するポストモダン』についての記述が出てくる。本書のテーマである「すべては等価である」という認識の直接的なヒントになったのが『動物化するポストモダン』だったそうだ。『動物化〜』が世に出たのが9.11以前の2001年。この本は2003年発行。ぼくは何も知らなかった。

『〈ことば〉の仕事』の仲俣氏と同様に、永江氏も雑誌「本とコンピュータ」に一時期かかわっていたという。そのせいか、『〈ことば〉の仕事』とこの本にはどこか共通する匂いが感じられる。「おたく世代以降…」とうたわれているが、本書に登場する様々なジャンルの表現者たちは、おたくでもなければ新人類でもない。80年代以降の世界を浮かれもせず舞い上がりもせず、欲望を表立って前に出すこともなく(隠そうとして逆に露わにしてしまうこともなく)、淡々と過ごしてきた人たちばかり。そこがいいと思う。
 

建築ユニット「アトリエ・ワン」のインタビューの、建築が絵画等の表現と異なるのは「施主」という存在があること、という話題についての発言より。

塚本 (略)「オレ、オレ」「私、私」というふうに押し切るやりかたがあまり好きじゃないのは、「オレ、オレ」というのはまさに主体性の確保で頭がいっぱいになっていて、他者の扱いかたに映し出される主体のありかたがあるということに無自覚だと思えるからです。
——そこで世間一般にとってアトリエ派がわかりやすいのは、スタイルの確立があるからでしょう。安藤ふうというと、施主は「コンクリート打ち放しにしてくれませんか」となる。谷口親子だったら和風だったり。フランク・ゲーリーは同じようなことを反復している。ところがアトリエ・ワンはそういうスタイルには背を向けている。飯島洋一が反発するのもそういうところでしょう。スタイルを確立しない、だから無名性、匿名性である、と。
塚本 モノローグはいやなんです。ダイアローグ、コミュニケーション、インタラクションに向かいたい。できるだけ世界との接触を増やしたいし、発見的でありたいから。

施主をクライアントに置き換えれば、デザインの話としてそのまま成り立つだろう。
 

つい最近も実感していることだが、自分の仕事において、自分自身の“主体性”というものが限りなく薄くなっているように感じる。担当した仕事を「ぼくが/わたしがデザインした」とは100%言い切れない感覚がいつもある。デザインにおけるクライアントやその他の人々とのやりとりの中で、いわゆる純粋な意味での“主体性”はつねに危機(=外部)にさらされている。主体はデザインする“私”の中になく、プロダクト/プロジェクトをとりまく場=全体の中にオーラのように存在している。

より現実的な言いかたをすれば、ある仕事ではプロデューサーの誰々さんの意見をそのまま形にすることもあるし、別の仕事ではイラストレーターやミュージシャンの誰々のアイデアを活かす最善の方法を考えるというアプローチもある。

固有のスタイルは持たない。だからといって他人の意見に「流される」のではなく、編集者のように全体を見ながらヴィジュアルの流れを望ましい方向にコントロールしていく。そこは自分できちんと責任を持つ。関わったスタッフそれぞれが「これは自分の仕事(デザイン)なんだよ」と胸を張って人に言えるようなプロダクトが作れればいいと思う。強いていえば、そういう仕事の積み重ねの中にぼくという主体の固有性がうっすらと浮かび上がるような感じ。

ぼくが「デザイン=(イコール)器」ということばで表現したかったのは、まさにそのような「他者の扱いかたに映し出される主体のありかた」のことだった。

 
写真=平らな時代―おたくな日本のスーパーフラット

亀倉雄策1915-1997

亀倉雄策1915-1997

日本のグラフィック・デザインをリードし続けた巨匠・亀倉雄策の回顧展が、銀座にあるギンザ・グラフィック・ギャラリーで開かれている。火曜日に観に行ってきた。

亀倉さんといえば“揺るぎないもの”とか“岩”みたいなイメージがある。展覧会会場で買った、最近出たばかりのエッセイ集『YUSAKU KAMEKURA 1915-1997』の序文で、デザイナーの友人早川良雄が彼のことを「太陽」になぞらえていて、なるほどな、と。《「太陽」は紆余曲折や遅疑逡巡も知らず、ひたすら前向きに胸を張り続けなければならない》。会場には、有名な東京オリンピックのポスターや、NTTほかのロゴマークなど、胸を張り続けてきた仕事の数々が整然と並んでいた。事務所の本棚には吉祥寺の古本屋で1000円で掘り出した(!)名著『世界のトレードマークとシンボル』が収められていて、仕事に詰まったときにはひっぱり出して眺めることにしている。作家性や自意識のレベルを超越して、信号や標識の域にまで達するデザイン(パブリック・デザインの真髄)。こういう(太陽のように)厳しくて絶対的な表現にも大いに憧れてしまう。1月31日(火)まで。

2005年最も印象に残った××××

2005年最も印象に残った××××

:::本:::

オヤジ国憲法でいこう!
しりあがり寿+祖父江慎(理論社→イースト・プレス)

しりあがり寿と装幀家の祖父江慎による共著。「個性は捨てるためにあるものである」「自分の傷は、これを無視する」「友達とは、寂しさを補うだけのものである」「お父さんは家族を守れません」…など、オヤジの二人がヤングたちに捧げる馬鹿馬鹿しさたっぷりの憲法、のふりをした一種の哲学書。

「ヤングよ」と問いかけるユーモラスな文体の合間に、“自分とは違う考え、違う立場の発言に対して「正しいか/間違っているか」の二つの反応しかできないというのは、自分の理解の外側にも世界があるということを認められない、ということじゃないか”といった、ずしっと来る言葉の数々がひそんでいる。こう見えてもナイーブで傷つきやすい人間なので、「自分の傷にもっと鈍感に」みたいなメッセージはとても役に立った。「自分探し」でなく「自分忘れ」を…。ぼくがいま毎日の仕事で実感しているのも、まさにそんな境地。さすが静高出身=しりあがり寿。しりあがりさん風キャラクターの挿画を、実は100%ORANGE及川賢治さんが描いているのも見どころ。

他にも…
13歳は二度あるか -「現在を生きる自分」を考える
 吉本隆明(大和書房)
Tokyo TDC, Vol. 16(トランスアート)
ディスクパッケージデザイン 大橋二郎・編(翔泳社)
 
 

ismag
 
:::雑誌:::

Intersection
(Intersection Magazine)

2005年は『Intersection』がぶっちぎり(車の雑誌だけに)。毎号欠かさず買い続けたのはこれと『広告批評』だけ。世界一スタイリッシュでウィットに富んだカー雑誌、を超えるファッション誌。デザイン、編集共にこれほどまでハイレベルな雑誌を見たことがない。不況から脱出しつつある時期だからか(いまのぼくにはまったく実感できないけど)たくさんの新雑誌が創刊された一年だった。けれど、ぼくの目に止まったのは、編集の基本がきちっと押さえてあっていつの時代にも通用するような、質実剛健を貫くものが多かった。

他にも…
Quick Japan
 特集:結婚、特集:ラジオ (太田出版)
CONTINUE (太田出版)
Wandel (山と渓谷社)
広告批評 (マドラ出版)

 
 
wadagd
 
:::アート:::

和田誠のグラフィックデザイン
(銀座=ギンザ・グラフィック・ギャラリー

広島で観た「絵本の仕事」展も素晴らしかったけど、グラフィックデザインの仕事に焦点を当てたこの展示はいろんな意味で励みになった。「デザインはあくまで人のためにあり、限りなく縁の下の力持ちだから、自己主張しないもの」という和田さんの姿勢は、gggの展覧会を観たときにも書いたが、ぼくのデザインに対する考え方と通じるものがある。必要だからそこにあるデザイン。器としてのデザイン。一芸に秀でるよりは多才/多彩。和田さんのように成長していけたらいいなといつも思う。

他にも…
和田誠の絵本の仕事
 (広島=ふくやま美術館)
カフェばか日誌 そしてsonesについての展覧会 (原宿=Pater’s Shop and Gallery)
チャールズ&レイ・イームズ 〜創造の遺産〜 (目黒=目黒区美術館)
ポーランドの映画ポスター (京橋=東京国立近代美術館フィルムセンター)

 
 
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:::音楽:::

ランラ
ケロポンズ(カエルちゃん

幼児教育の世界で人気のケロ(増田裕子)とポン(平田明子)のユニット=ケロポンズが、ハナレグミの宅録『帰ってから、歌いたくなってもいいようにと思ったのだ。』に影響を受け、初めて自分たちでアレンジを手がけた手作り感あふれるアルバム。おもちゃの楽器や手作り楽器を使ってほとんど一発録りでレコーディング。ハナレグミやTHE BOOM『JAPANESKA』(特に「夜道」)、たまあたりにまで通じる中央線フレーバーが漂う、シンプルでいてとても懐の広い作品。

このほかによく聴いたのは、ザ・コレクターズの2004年の傑作アルバム『夜明けと未来と未来のカタチ』。男女の愛や政治のことを、シンプルでまっすぐな言葉で歌うことのできる、こんな大人がうらやましい。ピチカート・ファイヴのロック版とでもいうべきサロン・ミュージック吉田仁によるアレンジが秀逸。リリー・フランキーもジャケット・イラストでいい仕事している。

ライブは、バンコクで観たKiiiiiii@FAT FEST FIVE、ロックフェス初体験のRISING FES.(北海道)で観たフィッシュマンズと忌野清志郎と電気グルーヴ×スチャダラパーetc.、宮島で観たTHE BOOM/宮沢和史が心に残る。3カ所に共通するのは「場」がもたらすパワーのすごさだった。
 
 

rodeo
 
:::キーワード:::

“ダンス”

2005年は金森穣主宰のイベント等で、コンテンポラリー・ダンスの魅力に初めて触れた年だった。某所での肩書きは“ダンサー”。なのに、昨年中はついにダンスを習う夢は果たせず。今年はぜひ習いに行きたいし、観る方も4月に行く予定のコンドルズをはじめいろんなダンスや動く芸能を楽しみたい。2004年のキーワードの“映像”もそうだけど、日頃静止した状態で物事を考えることが多いゆえ、動くもの〜動かすこと、に対する憧れが強いみたい。こういうブログみたいなことをやっていると、頭の中ではいくらでも考えを広げることができてしまう。好きなことが言えるし、ついつい普段の自分よりカッコいいことを口走ってしまうこともしばしば。ふう。そこで、頭でっかちになりがちな思考に対するストッパーとしての“肉体”をちゃんと並置しておきたいというか…。たぶんぼくがダンスを始めたとして、頭でイメージしているようには上手く踊れないと思うのだ。そこが逆に面白いんじゃないかと。肉体からはじまる思考、ダンスからはじまるデザインというものがあるような気がしている。ぼくの場合、それはグルーヴィジョンズが制作したHALFBY「RODEO MACHINE」のMVみたいな……。

 

>>>2004年最も印象に残った××××

ドイツ写真の現在

ドイツ写真の現在

文化の日に行きたいと思っていた東京国立近代美術館の展示、バンコクから帰ってから…と思っていたけど、TBをつけてくれた方のレポートを読んでいたら帰国まで待ちきれなくなり、フライト当日の昼、旅行カバンを持ったままふらっと観に行ってしまった。ぼくの最近の関心ともリンクする、とても興味深い展示だった。特に印象に残った作家や作品を挙げていくと……
(※作品は上のリンク先を参照)、

アンドレアス・グルスキー…かねてから噂に聞いていた「大阪」(=茨木市のゴルフ練習場の風景)が生で見られてうれしかった。グルスキーの写真を見ているといつも、神さまの視点でミニチュア模型みたいな人間や動物の小さな小さな営みをはるか上空からのぞき込んでいるような、すがすがしい気持ちになれる。全長2mもある作品の一枚一枚を隅々まで見ているだけで、何分も時間が過ぎてしまう。いつか単独の展覧会を日本でやってほしい。

トーマス・デマンド…一瞬CGと見まがうほどのスーパークリアな室内写真は、写真家本人が紙で作った原寸大の模型を撮影するという手法によって制作されている。この迂遠なプロセスによって作品に内在される狂気。

ハリス=クリスティアン・シンク…モチーフになっているのは、統一ドイツの交通網計画によって旧東ドイツに生まれた道路や橋などの新しい交通設備。美しく撮れば撮るほど、その空虚さが浮き彫りになる。まさに、かわりゆく「現在」の記録。

ヴォルフガング・ティルマンス…ドイツで写真を学び、いまはロンドンで活躍するティルマンスのリラックスした作品の数々。ロンドンでもパリでも東京でも成立するような、コスモポリタン的で“自由”な空気がこの美術館の中では新鮮だった。

最後に、ベルント&ヒラ・ベッヒャーについて。同じアングル・同じ天候条件のもとで淡々と写しとられていく、砂利工場や鉱山、給水塔などの建築物。人間の主観や歴史性を冷徹に排除し、構造や機能により「類型学」的アプローチでソートされたこれらの写真を見ているうち、その冷徹さとは対極のセンチメンタルな感情で胸が満たされてくるのはどうしてだろう。写真とは記録=記憶である、という当たり前の事実にいまさらながら気付かされる。たまたま最近読んでいた赤瀬川原平の「超芸術トマソン」「路上観察学」にも似た匂いを感じた。一見ユーモラスにみえる路上観察学会の活動(トマソンも一種の「類型学」)が、結果として、失われてゆく戦後の貴重な記録=記憶となっていたように、ベッヒャー夫妻がえんえんと試みる“記録”もまた、ナチスドイツ→戦後・冷戦時代→ベルリンの壁崩壊・東西ドイツ統一、というドイツの激変し続けてきた“かわりゆく「現在」”を、忘れずに銘記することのアナロジーにみえてならないのだ。ふー。

服部一成さんがデザインしたパンフレットは、主要な展示作品がほとんど収録されていてとってもおトク。ブルーナ・カフェは時間の都合でどうしても行けず、入口で断念。初めて行ったけど、とっても素敵な美術館。また行きたい。