今夜(だけ)は(追憶の)ブギー・バック(・マンションと上京当時のこと、小沢健二の話)

今夜(だけ)は(追憶の)ブギー・バック(・マンションと上京当時のこと、小沢健二の話)

公開終了の予定でしたが、まだ祭りが続いているようなので復活しました(期限未定)。
 

小沢健二のアルバム『LIFE』がリリースされた頃にぼくが住んでいたアパートが、ブギーバックマンション(オザケンとスチャダラパーのメンバーが生活していたマンション)から徒歩20分ほどの近隣にあったことを最近になって知った。週刊文春で小山田圭吾にインタビューしたルポライターが住んでいるのがブギーバックマンションの元小沢健二の部屋だった、というくだりを記事で読んで、グーグルマップで場所を調べたら、そのことがわかった。小山田圭吾の一件がなければずっと知ることはなかっただろうし、それに、今頃になって知っても……という気持ちも正直ある。
 


 

『LIFE』が発売された前年、1994年の1月に静岡から上京した。最初に住んだのは横浜の、庶民的な商店街のある町だった(世田谷区に転居したのは翌年1月)。トラック運送の仕事をしていた友人が手伝ってくれて、まだ建設中のみなとみらいや眩い高層ビル群を横切り、新しい部屋に到着したのが夜の7時頃。真っ先にしたのはテレビの接続。アンテナがまだ開通してなく、ノイズしか映らないブラウン管の奥からかすかに聞こえてきたのは、地元の局ではネットされていなかった『ウゴウゴルーガ』のテーマソング「東京は夜の七時」だった。
 

友人が勤務していた音楽事務所の編集セクションに入社してしばらくの間は、泊まり込みでFC会報やコンサートパンフレットの編集と執筆に明け暮れていた。ブラックといえばブラックな会社ではあったが、当時(も現在も)売れている音楽業界の周辺はどこもそんな感じだったと思う。CDを出せばミリオン〜ダブルミリオンという神話が、このあと5年くらいは残っていた。
 

編集セクションのあった小さなオフィスのラジカセからは、ずっとJ-WAVEが流れていた。上京したばかりの自分にとって、流れてくる音楽の全てが「東京」だった。
 

オフィスに寝泊まりしながら四六時中J-WAVEを聞いていると、ここから生まれるヒット曲があるということがだんだんとわかるようになった。ある曲のオンエア回数が急激に増えて一日の放送で何度も何度も流れるとか。ふと気付くとまんまと術中にハマって、いつのまにか口ずさんでいたりする。そんなヘビロテ曲のひとつに、小沢健二とスチャダラパーの「今夜はブギー・バック」があったと思う。東京で初めてたくさん聴いた曲が「ブギー・バック」だった。
 

>>小沢健二/珍盤への道を歩む、『今夜はブギー・バック』| 読む、小沢健二と小山田圭吾(コーネリアス)──当時のJ-WAVE出演時の書き起こし

 
フリッパーズ・ギターの解散後、小沢健二の活動は全く追いかけていなかった。『犬キャラ』もリアルタイムでは聞かずじまい。「天気読み」の8cmシングルの写真を見て、「オザケンがフォークに転向した」という友人の言葉を真に受けてしまった。実際、フリッパーズ解散以降の小沢健二の心境としては、当たらずともいえど遠からずだったのではないか。

 
しかし「今夜はブギー・バック」はそんな(勝手に思い込んでいた)小沢健二の世界の外側から、突然ビッグ・シューターのように放り込まれた。KNOCK KNOCK!! WHO IS IT? ……というか、第一印象ではこれはスチャダラが作った曲だと完全に思い込んでいた。それまで日の目を見ることのなかった日本語ラップが、初めてメジャーでの輝かしい成功を収めた記念碑的な曲でもあった。このすぐ後の夏には、J-WAVEでEAST END×YURIの「DA.YO.NE」のヘビロテが続くようになり、やがて日本語ラップ初のミリオンヒットに結びついた。

 
いま改めて「ブギー・バック」の歌詞を眺めると、70〜80年代のディスコ/クラブへの追憶と憧憬を描いたレトロスペクティブな内容にも見えるが、この曲がヒットした当時、90年代の東京では、重いドアを開けるとクラブカルチャーがいつでもすぐそこにあった。だからあのリリックは本当にリアルタイムの現在を描いているのだと、ぼくには感じられた。時代と狂騒が言葉と完全にリンクしていた。実際、家と方角は違うけど会社の帰りに同僚たちと新宿に寄って、一杯飲むような感覚で、CATALYSTというクラブに踊りに行ったりもした。CATALYST、MIX、LIQUIDROOM[新宿]、CAVE、MANIAC LOVE etc…。とりわけ好きだったテクノも、ジ・オーブ、オービタル、ジェフ・ミルズ、プロディジーなど、様々な来日ライブやDJを、連日クラブで体験することができた。

 
1994年の夏には、先行シングル(愛し愛されて生きるのさ/東京恋愛専科)に続いて『LIFE』がリリース。翌年の春までの大ブレイク(ラブリー〜強気強愛〜ドアノック…)を待たず、当時会社の女子の大部分がオザケンにハマっていく姿を見て、それでもまだ素直に評価できずにいた。

 
小沢健二の音楽を本当の意味で完全に理解できたと悟ったのは、その同僚たちに混ざって初めて行ったVILLAGEツアーの武道館公演(たぶん1995年5月)だった。長いこと食わず嫌いなままだった『犬キャラ』の楽曲も、『LIFE』のディスコクラシックアレンジの中で演奏されて、初めて一連の流れとして自然に受け入れることができた。小沢健二はステージから客席に向かって執拗にハンドクラップを求め続けていた。みんなの手拍子というプリミティブでベーシックなパーカッションが、武道館全体を包み込むような大きなグルーヴを生み出していた。そこに加わるストリングスとコーラスと強いバンドサウンドのハーモニー。そのうねりと高揚感の中にいつまでもいたいと思った。

 
ブギー・バックの話からだいぶ横道にそれてしまった(しかもVILLAGEツアーでは「ブギー・バック」やってないし…)。最初の話に戻ると、当時はまだ土地勘もなく、徒歩や自転車で長距離を移動する習慣もなかったので(グーグルマップもインターネットもまだ存在してない時代)、目黒区のすぐ隣が世田谷区、みたいな感覚もよくわかっていなかった。もし当時そのことを知っていたら、徒歩で一度くらいは偵察に行ってたかもしれない。ブギーバックマンション。
 

>>小沢健二が『So kakkoii 宇宙』で結ぶ、君と僕との「約束」

HELLO, IT’S ME

HELLO, IT’S ME

Twitterやブログなどで、訃報に接して亡くなった人の思い出を記すことがある。良い文章が書けた時はその人がいつまでもそばにいてくれるような気持ちになれる。たとえば、ミュージシャンの朝本浩文さんの思い出を綴った文章は、読み返すと今でも朝本さんがそこにいるように感じられる。

>>朝本浩文さんの初期のDJ仕事に同行した話|パラグラフ
 
それまで死というものに縁遠い人生を送ってきた自分が、2016年の終わりに相次いで身近で大切な存在を失った。ひとりは私の母。もうひとりはミュージシャンの黒沢健一さんだった。
 
黒沢さんに関しては亡くなる直前に『Focus』『V.S.G.P』、自分が関わった2つのアルバムの制作エピソードを公開してから、まだ新しいテキストを形にできていない。今、さらっと「亡くなる直前に」と書いたが、この事実を認めることすら長いこと困難な状態だった。心の中では、黒沢さんは最近日本では見かけないが、世界のどこか知らない場所をツアー中、という設定にしていた。
 
でも、そうやって事実にフタをしてしまうことで、新しい黒沢さん(不思議な言い方だけど)と出会うチャンスを自ら失ってしまっているのではないか、と最近考えるようになった。あの時以来人生はずっと曇り空で、心の底から手放しで幸せだと思える日がほとんどない。でも、曇り空を晴れに変えることはできないとしても、曇り空でも全然平気、と思えるようにはいつかなれるかもしれない。
 
黒沢さんとの楽しかった思い出を文章の形で残したい(もちろん心の中で思うだけでも十分だ)。その前に、あの頃、母と黒沢さんを同時期に看取った日々のことをどうしても言葉にしておかなくては、と思った。
 
……で、文章にまとめてみた。なんとか形にした。母の入院のこと。突然の訃報の直後、黒沢さんとのお別れの時に話しかけた内容。母の死に目に会えた日のこと。アルバム制作時のマネージャーがかけてくれた言葉。……他人に見せられるレベルの内容ではない。でも、書き終えて5年間の重い胸のつかえが取れてようやく少し楽になった気がした。
 
死とは、やり過ごしたりフタをして忘れてしまうものではなく、残された人々の心の中でこれからもずっと一緒に生きていくものだと思う。今日も、黒沢さんと最後に言葉を交わした時に(タワレコ新宿のインストアイベントに並んで)サインしてもらったアルバム『BEST VALUE』を聴きながら近所を散歩した。BTSの活躍やコロナの話題、最近の小山田くんのこと etc.……これからでも話したいこと、伝えたいことが山のようにある。
 

 
>>HELLO, IT’S ME|L⇔R|Uta-Net

>>グリーフケアとは|日本グリーフケア協会
今回いくつか調べた中で、この説明を読んだ時、自分がずっと抱えてきた悩みに光が差したような気がしました。医学的見地からこの問題にアプローチしている団体。

純粋に近況だけのメモ/〜2021・AUG

純粋に近況だけのメモ/〜2021・AUG

▼アートともデザインともあまり関係のない最近の出来事について時々記しています。このサイトへの投稿自体が本当に久々です。このタイトルで近況を書くのも7年振りのこと。そういえばコロナ以前は「これから行くかもしれない展覧会」の末尾に近況を記していました。前回はこちら

▼コロナ以降、別の世界線に入り込んでしまったような気がしています。いろいろな変化、前と比べて思うようにいかないことが増えています。仕事の依頼が当たり前に来なくなったりとか。自分が空気のように目に見えない、人から求められない存在になってしまったのではないか、という不安とともに日々を過ごすことが多くなりました。仕事としては水面下で進んでいたり、動いてもらっている案件もあるので、決してゼロではないのですが……。コロナへの恐怖が不安を、夜の枯尾花のように大きく見せていることも事実です。逆に、自分が目に見えない、誰からも期待されない存在だとしたら、だからこそ好きなようにやってやれという思いもあります。そもそも、今はとにかく健康な命があるだけで幸せ、とも。

▼そんな逆境・逆風の中、イラストレーターとしてこれまでに描いてきた作品を発表していくという、ここ数年あたためてきたプロジェクトをスタートさせ、今年初めに第一弾として『のはらうた』をテーマにした詩画集(ZINE)『ぼくは ぼく』を、詩人の工藤直子さんのお許しをいただいて、自主レーベルの品門堂本舗から刊行しました。1月に予定していた個展は緊急事態宣言により延期となりましたが、イラストレーターの北村範史さんが毎年夏に開くグループ展に誘われ、7月末から8月上旬まで、個展で展示予定だった作品の一部を初披露することができました。おかげさまでこの時期としては、想像を超える数のお客さまにご来場いただきました。展示に来てくれたお客さん(いつもの知り合い、初めて会う方)がぼくの目の前で絵を見て喜んでくださる様子を見て、ああ、これがやりたかったんだな、と強く感じました。

▼デザインの仕事(=生活)を優先するあまり、恵まれた形でデビューを飾らせてもらったイラストレーターとしてのキャリアをずっと蔑ろにしてしまっていたところがありました。人知れず夢中で描き続けていた過去の自分と、デザイナーとして様々な経験を積んだ今の(未来の)自分がタッグを組んで、どちらか片方だけではできない活動をこれからしばらく続けていこうと思います。すぐに結果が目に見えるものではないことは承知ですが、自信はあります。

▼前回(14年9月)の記事を読んでちょうどハロプロにハマり始めた時期だったんだなと思いました。ある事がきっかけでかえでぃーのヲタクからリタイアしてから、ハロプロにも他のグループにも特定の推しは設けていません(強いて一人選ぶなら、つばきの新メンバーの福田真琳ちゃん)。最後に行ったハローの現場は2020年秋のCOVERSの八王子でした。一時期頻繁に聴いていたK-POPも、最近は中1の娘がハマりだしたBTSやTXTをYouTubeで一緒に見るくらい。

▼ドラマは、坂道出身者で初めていいなと思った伊藤万理華主演の『お耳に合いましたら。』と、永野芽郁が新人警官役を好演している『ハコヅメ』。『おかえりモネ』はひとつ前の『おちょやん』が素晴らしすぎたのと、パラリンピック企画に引いてしまったところはあったけど、大体見ています。清原果耶のキョドり演技の細かさに感服(決してあれが彼女の“素”ではないはず)。物語として丁寧かどうかはおくとして、ひとつひとつのエピソード(決断)にゆっくり時間をかけているのも好感が持てます。

▼オリンピックのこと、政治のこと、その反映としての止まらないコロナの感染拡大……本当に日々悪夢の中にいるかのようです。ぼくにできるのはひとまず投票と、自己卑下や自虐はもうやめて、自分がこれで良いと思える道を進んでいく(間違ったと思ったらすぐに引き返す)こと。その先でまた、ぼくに必要な(ぼくを必要としてくれる)新しい人と出会えたらうれしいです。


 

グラフィックデザイナーとしてのポートフォリオを下記で公開しています。
>>下山ワタル DESIGN ARCHIVE(第3版+)

堅苦しくなりがちな内容を親しみやすく伝えるデザインを得意としています。
学術書・専門書・保育書関連のブックデザインなどがそれにあてはまると思ってます。
仕事の依頼は、Contactよりお気軽にお問い合わせください。

 
文中にも記した、イラストレーターとしての個人プロジェクトを今年から始めました。
ワンクリックをお願いします。
しなもん公式サイト https://www.cinnamon.buzz
品門堂本舗(BASE) https://store.cinnamon.buzz

 

>>純粋に近況だけのメモ/〜2014・SEP
>>純粋に近況だけのメモ/アーカイブ

生まれつきの強運を失った話

生まれつきの強運を失った話

生まれた時からものすごい強運の持ち主だったと思う。

ゼロ、いや、マイナスかもしれない地点から出発し、富士山にたとえれば2合目か3合目くらい、下手したら足を踏み出した途端に野垂れ死んでもおかしくはない人生のはずだった。しかし、こうして後ろを振り返ると、頂上は無理でも6〜7合目の間あたりまでは来れている。そこまで登ることができたのは自分の力ではなく周囲の引き立てのおかげ……というのは大人になった今だからこそ言える台詞であり、本当は自分が持つ並外れた強運のおかげだと最近までずっと思ってきた。

挫折して夢を諦めたりする経験がほとんどなかった。願望や目標は(大それたものでなければ)必ず実現した。もちろん進むべき道の先に壁が大きく立ちはだかり、その前で立ち往生することは度々あった。しかしそれでも諦めなければ先に進むことができた。道は常に一本だった。

(*このような感覚は男性に特有のことなのかもしれない、と最近の報道を見て時々考えるようになった。社会進出に際して障壁がほとんどなかった男性の影で、女性たちは夢を諦めなければならない立場に長年置かれてきた。そのことを男性の一人として申し訳なく思う。)
 

高2の時点でテストの学年順位400人中300位以下のレベルから、「不合格だったら諦めろ。浪人は許さない」と親から宣告されて単願で受験した地元の国立大学に、クラスで2人だけが現役合格。その一人が自分だった。やる気を失って願書を出していなかったのに担任が気付いて、締切ぎりぎりになって申請してくれて受験可能になったという顛末まであった(結局卒業はせず別の道を選んだので、最終学歴は流石大学中退)。

ゼロから独力で学んだデザインの仕事はそれなりに苦労も多かったが、営業しなくても仕事が途切れることはなかった。一つの収入の道が閉ざされそうになると、決まって誰かが現れて新しい仕事を授けてくれた。それが次の、まったく違う仕事につながることもあった。そのたびに未知のスキルが開発されていった。そうやって出会ってくれた人々には、最近の言い方を使わせてもらうならば、本当に感謝しかなかった。
 

運気の流れがはっきりと変わったのは、2017年頃からだった。他者を巻き込みひそかに進めようとしていたプロジェクトが頓挫した。自分が属していたチームから理不尽なかたちで外された。ずっと仕事を続けていけると信じていた仲間が突然2人もこの世を去った。甘い言葉で誘われた仕事が地獄だった。未払金。パワハラ。それまで温かく包まれていた強運の繭から突然放り出されて、寒空の中を自力で歩んでいかなくてはならなかった。2017年から2019年の2月まで、挫折と悔しさの連続だった。

その流れの境目に何があったか、もちろんよく覚えている。2016年の12月、闘病の末、母が帰らぬ人となった。悲しみはいつまでも尾を引いた。

外に出て何か新しいことを起こそうとすると悪いことばかりが身に起こる。どこにも出かけず家に籠もっている方がずっとましだった。コロナ禍の前兆みたいな話だが、おそらくそれがこの状況下における最善の選択だった。

相次ぐトラブルに見舞われた2018年の夏に、よりによって10年近く暮らした家から引っ越す決意をした。定収入が期待できそうな新しい仕事が見つかったのがきっかけだったが、肝心のその仕事は年内のうちに消えてしまった。

家賃を稼ぎ出すのもままならない状況が続く一方で、新しい家にいると不思議と気持ちがくつろいだ。外は相変わらず戦場のようだったが、家の中と窓から見える風景だけはいつも静かで居心地が良かった。それまでのマンションにはなかった、緑と風と虫と鳥の声、そして四方の窓から差し込んでくる十分な日当たりがここにはある。石井ゆかりさんの占いに、蟹座は硬い甲羅で自らを守る、というようなフレーズを見かけたが、まさにこの家が自分にとっての甲羅だった。

ここに引っ越してきてから、仕事よりも心血を注いだのは、郷里に残された父さんのお世話だった。幸い健康で車にも乗れて、最近ではLINEと電話で十分なコミュニケーションも取れるようになった。父さんは何かにつけ「母さんがおれを守ってくれる」と口にする。一時は勘当同然で互いに口を利くこともなかった父といろいろ語り合える仲までになったのは、まぎれもなく母さんのおかげだと思う。家を大事にすることによって守られるこの不思議な感覚は、数年前までは確実に自分の中になかったものだ。

生まれてからずっと自分を支えてきた謎の強運は消えてなくなり、仕事でもなんでも、ただ黙って口を開けているだけでは得られなくなってしまった。最初はそのことに慣れず苦労も大きかったが、あの時から担当の神様が母さんに変わったのだ、と思うようになった。全能感に包まれた子どもの時代を卒業し、ようやく大人になれたのかもしれない。

筒美京平SONGBOOK[増補新訂版]/プレイリスト

筒美京平SONGBOOK[増補新訂版]/プレイリスト

プレイリスト企画第2弾として(第1弾はK-POP PLAYLIST 2019 SUMMER)、作曲家・編曲家の筒美京平が、1965年の作家デビュー以来、2019年現在までに作曲(編曲)した曲を、Spotifyに登録された楽曲から選んでプレイリストにまとめました。

(本稿の人名はすべて敬称略)

1966年8月に藤浩一のシングルとして発売され、翌年までに7組のシンガーにより競作された「黄色いレモン」が筒美京平の作曲家としてのデビュー作でした。以来、作曲家・編曲家として数え切れないほどのヒット曲を量産し、現在もなお(2019年時点で79歳)コンスタントに作曲活動を続けています。

このプレイリストを作った理由

どうして音楽研究家でもなんでもない、ただのグラフィックデザイナーにすぎない自分が、このようなプレイリストを作ろうと考えたか。

小沢健二の17年ぶりのオリジナルアルバム『So Kakkoii 宇宙』のリードトラックとして、10月11日に突然リリースされた「彗星」を聴いて、筒美京平と共同作編曲した1995年のシングル「強い気持ち・強い愛」に通じる世界(歌謡曲+フィリーソウル)を感じたのがきっかけでした。そんな中、台風19号の襲来のため一歩も外に出られなかった夜に、Spotifyで再生時間8時間以上におよぶ筒美京平関連曲のプレイリストを聴いてみたら、思いのほか面白く、沢山の発見がありました。

その後、筒美京平全作品を網羅した記録集『筒美京平の世界[増補新訂版]』(P-Vine Books・2011年、トップの画像も同書からの引用 絵:和田誠)を読むと、上記のプレイリストの収録曲以外にも興味をそそる楽曲が沢山あることがわかりました。それらを補うかたちで、筒美京平の全仕事を「増補新訂版」的にまとめてみようと思って作ったのが、今回の200曲以上、再生時間12時間を超えるプレイリストです。

とはいえ、これはSpotifyに限らずストリーミングサービスの限界ですが、代表曲の多くが未登録のため、惜しくも今回のセレクトから漏れた曲が沢山ありました。作曲家デビュー曲の「黄色いレモン」と60年代の大半の作品。ジャニーズ事務所出身・所属の男性歌手(郷ひろみ、近藤真彦、少年隊、SMAPなど)。小泉今日子(←2020年追加)や中山美穂をはじめとする黄金期の女性アイドル。90年代では、裕木奈江、鈴木蘭々、内田有紀ほかの女優兼シンガーへの提供曲。2000年以降では、安倍麻美、Buono!、ゲーム内のBGMを全編手がけた『いただきストリート2』サントラ、etc……。それでも時代の要請に応じたバリエーションの豊かさと、フィリーソウルや洋楽ポップスへの愛情は十分伝わってきます。

資料は『筒美京平の世界[増補新訂版]』をベースに、刊行年以降(2012~)の曲は筒美京平のウィキペディアを参考にしました。

この経験がデザイナーとしての自分の仕事に還元されるか?といえば、疑いなく「No!」だと思います。ただ音楽が好きという気持ちに動かされてやっています。
 

選曲にあたってのルール

★2019年現在からデビュー年に向かって時代を遡る順に並べています(新→旧、一部例外あり)。
★シングル曲メイン。アルバム曲からも選ぼうと思いつつ、あまりに膨大なので断念しました。
★ひとつのテイストや自分の好みに寄せすぎず、代表曲、ヒット曲も含め、ポップス、ロック、演歌など多様なジャンルから選ぶと共に、時代の空気が伝わるように心がけました。
★Spotifyに収録されている範囲で、筒美京平から楽曲提供を受けた各アーティストの曲を最低1曲は必ず入れています。
★原則として、後年に発表されたカヴァー曲は省きました(森高千里「17才」ほか一部例外あり)。オリジナル曲が未収録の場合に限り、別のアーティストによるカヴァー作品を発売日の位置に入れている例がいくつかあります。
*安室奈美恵「人魚」(NOKKO)、大槻ケンヂ「お世話になりました」(井上順)、etc…
★加藤ミリヤ「新約ディアロンリーガール feat. ECD」は2018年の曲ですが、特別な成立背景もあって(マーヴィン・ゲイ「セクシャル・ヒーリング」→佐東由梨→ECD→加藤ミリヤ→新約 feat. ECD)、時代に応じてかたちを変えていく筒美京平作品を象徴する曲だと考えて、一番先頭に置きました。
 
 
短期間に膨大な筒美京平の作品を浴びるように体験して気付いた発見や感想はここではあえて省略し、これから聴く人にゆだねたいと思います。代わりに『筒美京平の世界[増補新訂版]』でも執筆者が挙げていた「筒美京平の10曲」を自分でも選んでみました。

アレンジが光る筒美京平の10曲

筒美京平が書いた曲を編曲家がアレンジして、楽曲は最終的な完成に至ります。自ら編曲家としても活動していた70年代以前は勿論、それ以降の作品でも編曲家に曲を渡す際に、ある程度のイメージは伝えていたのではないかと想像します。編曲家のアイデアが加わって更に輝きを増した、アレンジが光る筒美京平の10曲を選びました。
 

★Sweet Pain/MISIA(2000 編曲:松井寛)
──筒美京平が70年代にやりたかったことの完成形のようにも聴こえる。
★強い気持ち・強い愛/小沢健二(1995 編曲:筒美京平・小沢健二)
──「スタンダップ~」が京平サウンドの肝だと思ったので、『刹那』Ver.から。
★と・き・め・き/高橋由美子(1991 編曲:ULTIMAX)
──麻丘めぐみのカヴァー。リズムが、ジャングル直前のブレイクビーツ×エレクトロ。
★スクール・ガール/C-C-B(1985 編曲:船山基紀・C-C-B)
──女性アイドルがそのまま歌っても違和感なし。チョッパーベースもスパイス。
★ト・レ・モ・ロ/柏原芳恵(1984 編曲:船山基紀)
──たしか船山基紀が個人でフェアライトCMIを買って打ち込みした曲。
★ふりむけば愛/島田歌穂(1982 編曲:松井忠重)
──伊東ゆかり「愛の光」の改題だそう。歌巧~。
★青い地平線/ブレッド&バター(1980 編曲:細野晴臣・田辺信一)
──YMO直前の細野晴臣のベースが全編通して疾走してて爽快。
★ぬくもり/細川たかし(1978 編曲:高田弘)
──演歌歌手からの依頼はポップス調の曲が多い傾向。これも歌巧~。
★夏の感情/南沙織(1974 編曲:筒美京平)
──ファンクとロックの混ざり具合が、こぶしファクトリーっぽい。
★恋の追跡(ラヴ・チェイス)/山本リンダ(1972 編曲:馬飼野康二)
──欧陽菲菲のカヴァー。山本リンダの凄さがわかる。今もクラブで使えそう。

おまけ

◯野口五郎が、歌手としても楽曲としても素晴らしいということが今回の一番の発見。歌が巧すぎて、何曲も何曲も選んでしまいそうで困った。時代に応じて音楽性を少しずつアップデートしていることもよくわかる。「グッド・ラック」「女になって出直せよ」とか、山下達郎と比肩する才能が感じられるし、のちのシティポップにつながる萌芽も見られる。女性シンガーでの発見は、石井明美。

◯中山美穂の楽曲がなくて、代わりに選んだ「WAKU WAKUさせて」「ツイてるねノッてるね」のトランス/ユーロ・カヴァーがどちらも良かった。森高千里「17才」もそうだけど、カヴァー&リアレンジされても曲の良さが全く揺るがない。どころか、時代に応じて輝きを増していくのが不思議。