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知ったのはtengal6への曲提供や、去年ネットで見たインタビューがきっかけだったので、まだにわかである。

ヒップホップやR&Bをよく咀嚼しているのが素人の耳にも明らかに感じられる。海外の具体的な誰かというより、漠然と90年代中盤以降のR&Bっぽい匂いが感じられ、その時期のR&Bを大まかに代表して「宇多田ヒカル」っぽいという形容でくくってみたりもした。とりわけG.RINAのような女声ヴォーカルの起用と、全体に漂う悲哀のトーンなど。「水星」はKOJI1200「ブロウヤマインド」からループを引用しているそうで、特定のR&BではなくJ-POPを一旦通過したR&Bという印象も、あながち間違いではないのかもしれない。

「水星」などSoundcloudで聴ける代表曲は既に耳にしていたが、今度CD(『lost decade』)が出るにあたって、全曲ストリーミングで試聴し、Bandcampで発表された作品も遡って聴いてみた。

タグにいつも「神戸市」と付けられていたり、自らをDJ NEWTOWNと名乗るように、神戸市郊外の環境が、彼の音楽家・生活者としての原風景になっているのだろう。そこをホンマタカシや宮沢章夫と絡めて読み解くような批評が出てくるに違いない(磯部涼氏の批評は一読に値する)。

物哀しさ漂うメロディー、深夜から日の出にかけての未明の暗さとそこにしかない喜び――いまのところ、彼の楽曲を聴いて心に浮かんでくるキーワードである。まだストリーミング試聴の時点にして、アルバムがぼくの生活に欠かせないサウンドトラックになりつつあるのを感じている。
 

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https://www.tofubeats.com/

四本淑三の「ミュージック・ギークス!」 ― 第97回
ロングインタビュー
https://ascii.jp/elem/000/000/702/702058/

なんでアイドル好きなの? – tofubeats – ザ・インタビューズ
http://theinterviews.jp/tofubeats/41838

ZOKKON -candy floss pop suite- 第12回 | タワレコオンライン
インタビュー
https://tower.jp/article/series/2012/08/22/b549/b549_01

tofubeats – 水星(磯部涼) | ele-king
https://www.ele-king.net/review/album/002660/

南波一海 presents ヒロインたちのうた。 第11回 | CDジャーナル
http://www.cdjournal.com/main/special/song_of_the_heroines/645/11

クラフトワーク3-D東京公演の曲目を予想してみた

クラフトワーク3-D東京公演の曲目を予想してみた

[2013/5/21追記]クラフトワーク来日公演についての記事を投稿しました。
>>クラフトワーク3-D東京公演を観てきた|パラグラフ
――東京・大阪公演のセットリストについて記事末尾に追記しました(2013/5/8〜18更新)
 

クラフトワークが『アウトバーン』から『ツール・ド・フランス』までの8枚のアルバムを、3D映像をバックに8日間に渡って再現する 3-D CONCERTS 1 2 3 4 5 6 7 8 。2012年のニューヨークMoMA、2013年に入ってからのデュッセルドルフK20ロンドンTate Modernに続いて、ついに日本でも開催されることになりました。会場は、過去3公演とは違って美術館ではなく赤坂BLITZ、とのことで美術館好きとしては少々残念でしたが。参考までに、ネットで拾った各会場のキャパシティ(人)とチケット料金(+執筆時点の円換算)……MoMA=400/$25(¥2318)、K20=700?/€55(¥6798)、Tate=1000/£60(¥8610)、赤坂BLITZ=1400/¥9500。だんだん上がってます……。ちなみにMoMAではキャパが小さすぎたため、チケット購入の上限が全日程の中から一人2枚まで、という非情な枚数制限が設けられ、それに対して総統がお怒りになられた映像が作られたほどでした(→Hitler reacts to Kraftwerk MoMa ticket limit…笑)。

 

初来日の1981年と、2002年のElectragride以外、来日公演は欠かさず観てきたこともあり、今回も本当は全部観に行く!と力強く言いたいところですが、残念ながら予算的にも時間的にも難しいので、過去3回の美術館公演のセットリストを調べ、自分なりに見どころを検討してみました。

今回のツアーの構成から考えて、レパートリーやセットリストを開催国によって大きく変えることはないだろうと予測し、美術館LIVEの直近2公演のうち、(ロンドンはこれを書いている時点で進行中のため)デュッセルドルフK20のセットリストを参考にしました。なおタイトルは、ドイツ語ヴァージョンのものを英語に置き換えています。2月中旬時点での予想のため実際の演目とは異なること、事前のどんな情報よりも公演当日の体験の方がきっと価値が大きいであろうことをあらかじめお断りしておきます(今回は3Dだけに)。これ以降の推測は全て、下記のセットリストが東京公演の演目と同じ、もしくは近いという想定を元に進めます。
 

基本構成は「アルバム曲+定番の曲」

8日間とも基本的に冒頭が各日のアルバムからの曲で、後半が全作品からセレクトされたここ数年のLIVEでの定番の曲、という構成のようです(The Mixだけこの法則から外れます。後述)。後半「Autobahn」から始まって「Musique Non-Stop」で終わる曲順は毎日ほぼ同じで、前半のアルバムパートで演奏した曲がそこから省かれる、というパターンです。たぶん終盤の『Techno Pop』からの3曲は、昨年のNO NUKES 2012と同じくアンコールで、「Musique Non-Stop」で一人ずつ担当パートの音を止めてステージからはけていく様子が目に浮かびます。

アルバムの曲だけを演奏して終わり、ということはなく、どの日に行ってもクラフトワークの定番の曲は楽しめそうなので、無理して全公演を観に行く必要はないと思います。自分が好きな/思い入れのあるアルバムの日に行ければいいかな、というのがいまのところの見解です。
 

気になる公演、その他の見どころなど

定番のレパートリー以外のアルバム収録曲は、今回を逃すともう生で見る機会は二度となさそうで、となると 1:Autobahn2:Radio-Activity の初期作の再現がどんな感じか気になります。定番曲とのカブりが少なく、曲数も多くてほとんどアルバムの曲順通りに演奏される 2:Radio-Activity8:Tour de France は、アルバムパートの時間が長くてお得だと思います。

上記以外で、後半で長く演奏される曲とのカブりが多い日は、よほどの思い入れと余裕がなければ外してもいいかな、と個人的には思ってます。特に 6:Techno Pop の日は、前半で「Boing〜」から「Music〜」の流れを先にやってしまうため、最後に例の一人ずつ退出して行く終わり方が見られず、このままだとやや物足りないのではという気がしました。

それと 7:The Mix は、クラフトワークのレパートリーのほとんどが既にThe Mix化していることもあり、アルバム曲との違いがあまり明確でなく、8公演の中では少し微妙かなと思いました。大阪の1日公演はもしかしたらThe Mixの日の内容を軸に行われるのでは、と密かに予想してます(美術館LIVE以外の3D単独公演も各国で行われているので、おそらくそちらのセットリストに近いのかも)。

曲単位でいえば、日本語詞で来日公演では必ず盛り上がる「Dentaku」も見逃せません。デュッセルドルフ公演の場合は、5:Computer World7:The Mix のいずれか。でもその他の日でも、過去の来日のようにダブルアンコールでやってくれそうな期待も。ちなみにNO NUKES 2012で披露された「Radioactivity」日本語ヴァージョン(フクシマ、放射能〜)は、今年のデュッセルドルフ、ロンドンでも演奏されています。昨年よりも多くの人々が、あの消え入りたくなるような「屈辱」を今度は3D映像付きで体験することになるでしょう。
 

結局行くことにしたのは……

結局いろいろ検討した結果、5:Computer World8:Tour de France の2日分を申込みました。もしも余裕があれば 2:Radio-Activity も行ってみたいところですが、さてどうでしょう。

5にした理由は、『Computer World』がクラフトワークで一番好きなアルバムだから(「Numbers」からの流れなど、全体にこれまでLIVEで演奏された機会が多いアルバムでもあります)。あとは「Dentaku」が確実に聞けそうなのと、デュッセルドルフの演目には「Neon Lights」が含まれていて、行けなかった1981年の中野サンプラザ公演(『The Man Machine』〜『Computer World』リリース後のツアー)を思わせる内容になりそうなこと。

8は、やはりアルバム曲を頭からフルで長く聞けることが一番の理由(『Computer World』と一、二を争う好きなアルバム)。ツール・ド・フランスだけに3D映像にも動きやスピード感がありそうだし、最終日だから何か特別なアンコールをやってくれるかも、という期待を込めて。
 
余談ですが、Tate Modern公演はLIVE中の写真撮影が自由で、クラフトワークのTwitterアカウントでも連日ハッシュタグを使った写真の投稿を呼びかけているようです。日本ではどうなんでしょうね。
(2013/5/10追記:東京3日目からラルフの意向で、携帯・スマートフォンでの撮影OKになりました)
 

>>ウドー音楽事務所:クラフトワーク公演詳細(リンク切れ)
 

 
(以下は、2013年1月のデュッセルドルフ公演のセットリストです) 

(さらに…)

展覧会日和[2011・3月11日〜4月]

展覧会日和[2011・3月11日〜4月]

>>展覧会日和[2011・1〜3月10日]からの続きです。

3月11日
妻が打ち合わせのため午後から吉祥寺へ、娘はきょうは保育園の日。ぼくも午後から出勤する予定だったが、思うところがあって結局家にとどまることにした。ごはんを食べてから仕事部屋のMacの前に座り、さて仕事を始めようと思ったところで突然大きな揺れを感じた。すぐに収まるだろうとの予想に反して、揺れは長く続き、そのうち部屋全体が大きくグラインドし始めた。仕事机を囲む大きな資料棚がいまにも倒れそうに揺れ、上に積んであった荷物が次々と落下した。棚自体が倒れてしまわないように、両手を広げて支えるのがやっとだった。

部屋を出てリビングに行くと、天井までの高さのCDラックが斜めに倒れ、大量のCDが床に散乱していた。テレビではニュースキャスターが、宮城県沖で巨大な地震が起こったことと、大きな津波の危険を伝えている。Twitterから流れてきた「阪神大震災の経験から、お風呂にすぐに水を貯めるべき」という情報に従い、風呂に行って蛇口をひねるが水はいっこうに出てこない。CDラックが倒れた様子などをTwitterで第一報として伝えると、妻からリプライが来て無事が確認できた。試しに携帯にかけてみるが、アナウンスばかりで全くつながらない。Twitterだけが重要なライフラインだった。

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屋外の様子を見ようとドアを開けて外に出てみた。エレベーターは「地震」という表示が出たまま止まっている。感じたことのない恐怖と興奮で手が震え、次に何をしたらいいかわからなくなっていた。とにかく保育園にいる娘の様子が気がかりで、意を決して自転車で様子を見に行くことにした(この時点でぼくが事務所ではなく家にいたことはラッキーだった)。自転車から見る街の風景はいつもとさほど変わらず、ペダルを漕ぎながら少し気持ちが落ち着いてきた。保育園に到着すると、娘やほかの子どもたちは無事でひとまず安心した。先生と話して、いまは保育園の方が安全だと判断し、そのままお迎えの時間まで預かってもらうことにした。自宅に戻って散乱したCDを急いで片付け、妻からのダイレクトメッセージに従って、ティッシュやおむつなどの必需品と当面の食料を買いに出かけた。まだこの時点までは買い占めもなく、スーパーの在庫にもかなりの余裕があった。

東京では全ての電車が運休し、妻もしばらく帰れそうにないとのことだった。震災のニュースしか流れないテレビを見ながら、近所で買ったお弁当を保育園から帰った娘と一緒に食べた。福島第一原発の電源が失われ、周辺の住民が避難や自宅待機を命じられたというニュースも心配だった。打ち合わせで一緒だった友人のポンちゃんが妻を車で送ってくれることになり、一日も終わりにさしかかった頃ようやく家族三人が家に揃った。

3月12日
朝のニュースで繰り返し流される津波の映像を見て、改めて言葉を失う。娘をひざの上でだっこしながら、友だちがくれた新刊の絵本を読んであげたら「もーいっかい」「もーいっかい!」と止まらなくなり、計14回連続で繰り返し読まされた。2歳児なりにこの状況への恐怖を感じ取っているようにもみえた。

刻々と変わる震災の状況を主にTwitterでずっと追っていた。福島原発1号機の水素爆発のニュースもマスメディアより先にTwitterで知った。マスメディアに先行した速報、有用な知識、被災地の安否情報や救出を求める声、デマに近い情報などが玉石混交、渾然一体となって次々と流れてくる。関東全域に死の灰が降りてくる、という不安を煽るだけのリツイートが次々と西日本の友人から流れてきて思わず憤った。しかしよくよく話を聞いてみると安全な場所にいるはずの彼らもまた、被災地や関東の人々と同様に不安に怯えていたのだった。

原発事故による電力不足で輪番停電が実施されるという談話が発表された(実際に計画停電が実施されたのは14日月曜から)。これに先立って節電を呼びかける動きがTwitter上で自発的に発生し、『新世紀エヴァンゲリオン』の全国から電力を集めて使徒を倒す作戦になぞらえて「ヤシマ作戦」と呼ばれた。東電の数々の失態を知った後では何とも言えない気持ちが残るが、不安が世界を覆う中、みんなが協力して一つの作戦に向かうことにより気持ちがずいぶん楽になった。まだ冬に近いこの時期に暖房などを消して夜間の2時間を過ごすのは少し堪えたが、全くしのげないほどでもなかった。同時に、電力が全く途絶えた東北の避難生活の厳しさに思いを馳せた。

3月19日
震災から一週間が経った。計画停電に翻弄されて、この一週間は都心には一度も出られなかった。ギャラリーの多くが休業もしくは大幅に営業時間を短縮していて、展覧会どころでもなさそうだった。

関東圏を中心に計画停電で電車が止まり、商店街からは買い占めにより水や生活用品が消え失せた。Twitterにはデマ情報を含む様々なリツイートが相変わらず怒濤のように押し寄せている。放射線については安全という見方があれば危険という見方もあり、議論の一方で脅しにも似たRTを連発する人々も多かった。「不安」というものが人々を心の底から震え上がらせて、買い占めや流言飛語のような、不必要な行動へと駆り立てていることが理解できた。しかしその一方で不安があるからこそ、人は互いに勇気付けあい、身を寄せ合いながら生きていくことができる。人間という生き物の根底にある不安という感情について、もっと深く考えてみたいと思った。

春休みで児童サークルや児童館のイベントも休みに入り、放射能が関東一帯にいまも降り続けているという情報が流れる中、娘を外で自由に遊ばせることもできず、家族三人で晴天の窓の向こうを見つつ室内に閉じこもる日々が続いた。サークル仲間のママ友さんの多くが、子どもを連れて西日本にある実家に避難したという話を聞き、妻も不安で気が気ではなさそうだった。このままでは母娘とも放射能云々よりも先にストレスで参ってしまう。ぼく自身は様々な情報を吟味して、東京では地震はまだしも、放射能に関しては避難の必要がないだろうと構えていたが、安穏としていられないムードが家にも社会にも満ちていたのも確かだった。

東京を出よう、いややめよう、という何度かのやりとりがあって数日後、朝方、空が朝焼けで真っ二つに割れているのを見て胸騒ぎを感じ、突発的にその日の昼に家族で東京を離れ、広島にあるポンちゃんの実家にしばらく泊めてもらうことにした。空の異変はある種のエクスキューズだったが、ともあれ自分としては思い切った決断だったと思う。

3月×日
広島ではポンちゃんと実家の両親のご厚意により、山あいののんびりした環境の中で震災以来久々にゆっくり過ごすことができた。ポンちゃんの双子の娘が熱心に遊んでくれて、娘とママの顔にも優しい表情が戻ったようだった。自宅から無線LAN環境とMacBook Proを持っていったのでぼくも簡単な仕事ができたし、これがその後行われるケロポンズのチャリティーライブのUst中継にも役立つことになった。

滞在中、展覧会ではないけど、ポンちゃんの薦めもあって、広島市内に原爆ドーム平和祈念資料館を見に行くことにした。妻は修学旅行で一度訪れたそうだが、ぼくは初めてだった。広島の街は路面電車が行き交う中で人々がのんびりと往来していて、「震災前の世界」を久々に見た思いがした。原爆ドームは壊れる寸前の外観で、痛ましい原爆投下の痕跡と記憶を一身に支えていた。平和祈念資料館には、原爆がもたらした物的な被害のほかに、放射線による後遺症についても生々しい描写とともに紹介されていた。こんな悲しい出来事を経てなお、原子力の平和利用だかグローバリゼーションだか知らないが、再び悪魔の道に向かって後戻りが効かなくなるまで突っ走った自分たち日本人を、心の底から愚かだと思った。広島に何度でも学べばいい。これらの展示を日本人はいまこそ見るべきだ。いつか本当に後戻りができなくなってしまわないためにも……。同様の趣旨だったに違いない目黒区美術館の展示「原爆を視る1945-1970」が、震災の影響を受けて急遽中止になってしまったことが返す返すも残念でならない。

 
4月×日
結局、広島には10日ほどお世話になり、月末には東京に戻ってきた。首都圏の駅の構内や地下街は蛍光灯が消えてヨーロッパのように薄暗かったが、それもまた悪いものではなかった。広島から花粉症がずっとひどかったので、行きつけの原宿の耳鼻科に行って薬をもらった帰り、原宿のTOKYO CULTUART by BEAMSで3月に開催していた「愛おしいゴミ展」が引き続き延長されているのを知り、中に入ってみた。ミュージシャンやクリエイター、文化人が集めている、本人以外にはゴミにしか見えないモノのオンパレードだが、巷で流行っている断捨離とは真逆の発想が面白く、大好きなVOWに似たところもあって殺伐としていた心が少し和んだ。

4月×日
渋谷パルコファクトリーの川島小鳥写真展「未来ちゃん」へ。平日にもかかわらずずいぶん賑わっていた。未来ちゃんの可愛さがまず目を引くが、写真としても非常に優れていると感じた。それ以前に子どもを被写体にすることの困難さは、我が娘のポートレート撮影で嫌というほど思い知らされている。大人しくしているような子じゃなさそうなのに、よくこれだけのカットを引き出せたと、それだけでも感心するというのに。

4月×日

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初台の東京オペラシティアートギャラリーで、前から楽しみだったホンマタカシ「ニュー・ドキュメンタリー」を観た。作品を順番にじっくりと見ていく中で「下向きの視線」というキーワードがなぜか頭に浮かんだ。最初は「Tokyo and My Daughter」のシリーズを見て思ったのだが、子どもを捉えた写真ということで必然的に目線が大人より下向きに、ちょっと俯瞰する形になる(ちなみにこのシリーズに出てくる「My Daughter」はホンマタカシの実の娘ではない。中にはホンマタカシではなく娘の本当の家族が撮影した写真も含まれているという)。都市や郊外の風景をフラットに、もしくは見上げるような視点で撮り続けてきたこれまでの作品から考えると、このシリーズにしても、野生動物の通り道を撮影する「Together」も北海道の鹿狩りの血の跡を追う「Trails」も一様に下向きの視線で、興味の方向が変わってきているのか、もしくは社会的な趨勢が彼の写真の中に反映しているのか、そんなことを考えさせられた。震災を経て表現においては小手先が通用しなくなるというか、性質上現実と向き合わざるを得ない写真という手段は、より一層「ベタ」(直接的)であることを要求されるのではないだろうか。ホンマタカシの震災以後の作品にも早く触れてみたい。

会場の出口で「Satellite9」というホンマタカシ関連展のスタンプラリーの用紙を発見。できれば全部回ってみたい。外に出たところにあるナディッフでニュー・ドキュメンタリーのTシャツを買った。

4月×日
震災のことなど忘れてしまいそうなおだやかな春の一日。前から開かれると聞いていた北村範史さんの個展「球根とサコッシュ」を観に、神楽坂のフラスコというギャラリーへ。毎年のライフワークになっている球根の絵と、アメリカの古い銀行の金貨袋に手を加えて作られた手作りのサコッシュ。震災以降の不安と隣り合わせの毎日において大切な事は、できるだけ平常心を保ち続けていくことだと思う。そのためのヒントがこの展示にはあったような気がする。サコッシュを一つと、娘用の新しいTシャツを一枚購入。

 
――2010秋以降の展覧会ツイートを、こちらのハッシュタグ #gbiyori に残しています。

2022年以降はこちらへ。→ #gbiyori@cinnamo_info

DOMMUNEに行ってきた。

DOMMUNEに行ってきた。

GW中の5月2日(日)に行われた、ダブ・エンジニア/ミュージシャンSCIENTISTのトークライブを観に、南青山のDOMMUNEに行ってきた。ゲストは前日のライブでも共演したこだま和文さん。

トークライブも面白そうだったが、DOMMUNEの内部に興味があった(DOMMUNEについてはこちらのまとめも参照)。DOMMUNEのUstreamは、L?K?OのDJの回で知ってから何度か見ていた。今回はこだまさんの話が聞けることもあって、生で見たい気持ちが強く、DOMMUNEからのツイートを見てすぐに応募した。当日の昼に予約受付、夕方に当選通知のメールが届き、夜には本番という、観覧までのタイム感がなんともDOMMUNEらしい。

(さらに…)

ぐるりのこと。

ぐるりのこと。

映画を映画館で観るのは何年ぶりだろう。「ぐるりのこと。」は、リリー・フランキーと木村多江という夫婦のキャストの妙と、主人公の法廷画家という特殊な職業が面白そうだったこと、そして、かつて『ハッシュ!』を撮った橋口亮輔監督が、うつと闘った自らの経験を作品に織り込みつつ6年ぶりに作り上げた作品だと聞いて、観てみたいとずっと思っていた。物語は、法廷作家として直面した凶悪事件の裁判の場面をアクセントにしつつ、全体として淡々と進んでいく。たっぷりの行間と余白があって、そのすきまを観る人の想像力が埋めていくタイプの作品。その余白と間(ま)の美しさは北野映画にも通じるものがあった。

わが子の早すぎる死をきっかけに自分を責め、やがて心を病んでいく木村多江演じる妻・翔子と、彼女のすべてを黙って受け止めるリリーさん演じる夫・カナオの関係が、自然で力が抜けていて好感が持てた。純粋な翔子を気遣うカナオが見せるちょっとした仕草にも、さりげない優しさが伝わってくる。去年、ストレスがきっかけで少しだけ心が躓いた日々のことを、思い出しながら観た。病めるときも、健やかなるときも、変わらず穏やかな気持ちで見守ってくれるパートナーの存在は、本当にかけがえのないものだ。

うつとかパニック障害といったある種の心の病は、植物でいえば「種子」のような状態にたとえられると思う。樹木に成った実が、他の生物に食べられ、腐って地面に落ちたりして、朽ち果ててやがて種子だけが残る。輝かしい花や実を植物のサイクルの頂点とするならば、種子の皮はあまりに固く中は暗くて、一切の終わりを想起させる。こんな状態にもし閉じこめられたら、人は溜息の一つもつきたくなるだろうし、手も足も出ず、何もしたくなくなるものだ。場合によっては「死」を考えたくなることだってあるに違いない。しかし、そこで忘れないでほしい。種子はひとつの死であると同時に、新しいサイクルの始まる場所、生の源泉だということを。やがてしかるべき時が経てば、ひと筋の新しい芽が固い殻を突き破り、天に向かってまっすぐに伸びてゆく。それが自然の摂理というものだ。……そんなことを、映画の後半を観ながらぼんやりと考えていた。