展覧会日和[2011・3月11日〜4月]

展覧会日和[2011・3月11日〜4月]

>>展覧会日和[2011・1〜3月10日]からの続きです。

3月11日
妻が打ち合わせのため午後から吉祥寺へ、娘はきょうは保育園の日。ぼくも午後から出勤する予定だったが、思うところがあって結局家にとどまることにした。ごはんを食べてから仕事部屋のMacの前に座り、さて仕事を始めようと思ったところで突然大きな揺れを感じた。すぐに収まるだろうとの予想に反して、揺れは長く続き、そのうち部屋全体が大きくグラインドし始めた。仕事机を囲む大きな資料棚がいまにも倒れそうに揺れ、上に積んであった荷物が次々と落下した。棚自体が倒れてしまわないように、両手を広げて支えるのがやっとだった。

部屋を出てリビングに行くと、天井までの高さのCDラックが斜めに倒れ、大量のCDが床に散乱していた。テレビではニュースキャスターが、宮城県沖で巨大な地震が起こったことと、大きな津波の危険を伝えている。Twitterから流れてきた「阪神大震災の経験から、お風呂にすぐに水を貯めるべき」という情報に従い、風呂に行って蛇口をひねるが水はいっこうに出てこない。CDラックが倒れた様子などをTwitterで第一報として伝えると、妻からリプライが来て無事が確認できた。試しに携帯にかけてみるが、アナウンスばかりで全くつながらない。Twitterだけが重要なライフラインだった。

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屋外の様子を見ようとドアを開けて外に出てみた。エレベーターは「地震」という表示が出たまま止まっている。感じたことのない恐怖と興奮で手が震え、次に何をしたらいいかわからなくなっていた。とにかく保育園にいる娘の様子が気がかりで、意を決して自転車で様子を見に行くことにした(この時点でぼくが事務所ではなく家にいたことはラッキーだった)。自転車から見る街の風景はいつもとさほど変わらず、ペダルを漕ぎながら少し気持ちが落ち着いてきた。保育園に到着すると、娘やほかの子どもたちは無事でひとまず安心した。先生と話して、いまは保育園の方が安全だと判断し、そのままお迎えの時間まで預かってもらうことにした。自宅に戻って散乱したCDを急いで片付け、妻からのダイレクトメッセージに従って、ティッシュやおむつなどの必需品と当面の食料を買いに出かけた。まだこの時点までは買い占めもなく、スーパーの在庫にもかなりの余裕があった。

東京では全ての電車が運休し、妻もしばらく帰れそうにないとのことだった。震災のニュースしか流れないテレビを見ながら、近所で買ったお弁当を保育園から帰った娘と一緒に食べた。福島第一原発の電源が失われ、周辺の住民が避難や自宅待機を命じられたというニュースも心配だった。打ち合わせで一緒だった友人のポンちゃんが妻を車で送ってくれることになり、一日も終わりにさしかかった頃ようやく家族三人が家に揃った。

3月12日
朝のニュースで繰り返し流される津波の映像を見て、改めて言葉を失う。娘をひざの上でだっこしながら、友だちがくれた新刊の絵本を読んであげたら「もーいっかい」「もーいっかい!」と止まらなくなり、計14回連続で繰り返し読まされた。2歳児なりにこの状況への恐怖を感じ取っているようにもみえた。

刻々と変わる震災の状況を主にTwitterでずっと追っていた。福島原発1号機の水素爆発のニュースもマスメディアより先にTwitterで知った。マスメディアに先行した速報、有用な知識、被災地の安否情報や救出を求める声、デマに近い情報などが玉石混交、渾然一体となって次々と流れてくる。関東全域に死の灰が降りてくる、という不安を煽るだけのリツイートが次々と西日本の友人から流れてきて思わず憤った。しかしよくよく話を聞いてみると安全な場所にいるはずの彼らもまた、被災地や関東の人々と同様に不安に怯えていたのだった。

原発事故による電力不足で輪番停電が実施されるという談話が発表された(実際に計画停電が実施されたのは14日月曜から)。これに先立って節電を呼びかける動きがTwitter上で自発的に発生し、『新世紀エヴァンゲリオン』の全国から電力を集めて使徒を倒す作戦になぞらえて「ヤシマ作戦」と呼ばれた。東電の数々の失態を知った後では何とも言えない気持ちが残るが、不安が世界を覆う中、みんなが協力して一つの作戦に向かうことにより気持ちがずいぶん楽になった。まだ冬に近いこの時期に暖房などを消して夜間の2時間を過ごすのは少し堪えたが、全くしのげないほどでもなかった。同時に、電力が全く途絶えた東北の避難生活の厳しさに思いを馳せた。

3月19日
震災から一週間が経った。計画停電に翻弄されて、この一週間は都心には一度も出られなかった。ギャラリーの多くが休業もしくは大幅に営業時間を短縮していて、展覧会どころでもなさそうだった。

関東圏を中心に計画停電で電車が止まり、商店街からは買い占めにより水や生活用品が消え失せた。Twitterにはデマ情報を含む様々なリツイートが相変わらず怒濤のように押し寄せている。放射線については安全という見方があれば危険という見方もあり、議論の一方で脅しにも似たRTを連発する人々も多かった。「不安」というものが人々を心の底から震え上がらせて、買い占めや流言飛語のような、不必要な行動へと駆り立てていることが理解できた。しかしその一方で不安があるからこそ、人は互いに勇気付けあい、身を寄せ合いながら生きていくことができる。人間という生き物の根底にある不安という感情について、もっと深く考えてみたいと思った。

春休みで児童サークルや児童館のイベントも休みに入り、放射能が関東一帯にいまも降り続けているという情報が流れる中、娘を外で自由に遊ばせることもできず、家族三人で晴天の窓の向こうを見つつ室内に閉じこもる日々が続いた。サークル仲間のママ友さんの多くが、子どもを連れて西日本にある実家に避難したという話を聞き、妻も不安で気が気ではなさそうだった。このままでは母娘とも放射能云々よりも先にストレスで参ってしまう。ぼく自身は様々な情報を吟味して、東京では地震はまだしも、放射能に関しては避難の必要がないだろうと構えていたが、安穏としていられないムードが家にも社会にも満ちていたのも確かだった。

東京を出よう、いややめよう、という何度かのやりとりがあって数日後、朝方、空が朝焼けで真っ二つに割れているのを見て胸騒ぎを感じ、突発的にその日の昼に家族で東京を離れ、広島にあるポンちゃんの実家にしばらく泊めてもらうことにした。空の異変はある種のエクスキューズだったが、ともあれ自分としては思い切った決断だったと思う。

3月×日
広島ではポンちゃんと実家の両親のご厚意により、山あいののんびりした環境の中で震災以来久々にゆっくり過ごすことができた。ポンちゃんの双子の娘が熱心に遊んでくれて、娘とママの顔にも優しい表情が戻ったようだった。自宅から無線LAN環境とMacBook Proを持っていったのでぼくも簡単な仕事ができたし、これがその後行われるケロポンズのチャリティーライブのUst中継にも役立つことになった。

滞在中、展覧会ではないけど、ポンちゃんの薦めもあって、広島市内に原爆ドーム平和祈念資料館を見に行くことにした。妻は修学旅行で一度訪れたそうだが、ぼくは初めてだった。広島の街は路面電車が行き交う中で人々がのんびりと往来していて、「震災前の世界」を久々に見た思いがした。原爆ドームは壊れる寸前の外観で、痛ましい原爆投下の痕跡と記憶を一身に支えていた。平和祈念資料館には、原爆がもたらした物的な被害のほかに、放射線による後遺症についても生々しい描写とともに紹介されていた。こんな悲しい出来事を経てなお、原子力の平和利用だかグローバリゼーションだか知らないが、再び悪魔の道に向かって後戻りが効かなくなるまで突っ走った自分たち日本人を、心の底から愚かだと思った。広島に何度でも学べばいい。これらの展示を日本人はいまこそ見るべきだ。いつか本当に後戻りができなくなってしまわないためにも……。同様の趣旨だったに違いない目黒区美術館の展示「原爆を視る1945-1970」が、震災の影響を受けて急遽中止になってしまったことが返す返すも残念でならない。

 
4月×日
結局、広島には10日ほどお世話になり、月末には東京に戻ってきた。首都圏の駅の構内や地下街は蛍光灯が消えてヨーロッパのように薄暗かったが、それもまた悪いものではなかった。広島から花粉症がずっとひどかったので、行きつけの原宿の耳鼻科に行って薬をもらった帰り、原宿のTOKYO CULTUART by BEAMSで3月に開催していた「愛おしいゴミ展」が引き続き延長されているのを知り、中に入ってみた。ミュージシャンやクリエイター、文化人が集めている、本人以外にはゴミにしか見えないモノのオンパレードだが、巷で流行っている断捨離とは真逆の発想が面白く、大好きなVOWに似たところもあって殺伐としていた心が少し和んだ。

4月×日
渋谷パルコファクトリーの川島小鳥写真展「未来ちゃん」へ。平日にもかかわらずずいぶん賑わっていた。未来ちゃんの可愛さがまず目を引くが、写真としても非常に優れていると感じた。それ以前に子どもを被写体にすることの困難さは、我が娘のポートレート撮影で嫌というほど思い知らされている。大人しくしているような子じゃなさそうなのに、よくこれだけのカットを引き出せたと、それだけでも感心するというのに。

4月×日

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初台の東京オペラシティアートギャラリーで、前から楽しみだったホンマタカシ「ニュー・ドキュメンタリー」を観た。作品を順番にじっくりと見ていく中で「下向きの視線」というキーワードがなぜか頭に浮かんだ。最初は「Tokyo and My Daughter」のシリーズを見て思ったのだが、子どもを捉えた写真ということで必然的に目線が大人より下向きに、ちょっと俯瞰する形になる(ちなみにこのシリーズに出てくる「My Daughter」はホンマタカシの実の娘ではない。中にはホンマタカシではなく娘の本当の家族が撮影した写真も含まれているという)。都市や郊外の風景をフラットに、もしくは見上げるような視点で撮り続けてきたこれまでの作品から考えると、このシリーズにしても、野生動物の通り道を撮影する「Together」も北海道の鹿狩りの血の跡を追う「Trails」も一様に下向きの視線で、興味の方向が変わってきているのか、もしくは社会的な趨勢が彼の写真の中に反映しているのか、そんなことを考えさせられた。震災を経て表現においては小手先が通用しなくなるというか、性質上現実と向き合わざるを得ない写真という手段は、より一層「ベタ」(直接的)であることを要求されるのではないだろうか。ホンマタカシの震災以後の作品にも早く触れてみたい。

会場の出口で「Satellite9」というホンマタカシ関連展のスタンプラリーの用紙を発見。できれば全部回ってみたい。外に出たところにあるナディッフでニュー・ドキュメンタリーのTシャツを買った。

4月×日
震災のことなど忘れてしまいそうなおだやかな春の一日。前から開かれると聞いていた北村範史さんの個展「球根とサコッシュ」を観に、神楽坂のフラスコというギャラリーへ。毎年のライフワークになっている球根の絵と、アメリカの古い銀行の金貨袋に手を加えて作られた手作りのサコッシュ。震災以降の不安と隣り合わせの毎日において大切な事は、できるだけ平常心を保ち続けていくことだと思う。そのためのヒントがこの展示にはあったような気がする。サコッシュを一つと、娘用の新しいTシャツを一枚購入。

 
――2010秋以降の展覧会ツイートを、こちらのハッシュタグ #gbiyori に残しています。

2022年以降はこちらへ。→ #gbiyori@cinnamo_info